平成26年1月号  狩野永徳


あけましておめでとうございます。
昨年1年間、ご愛読ありがとうございました。
今年も楽しい企画を考えていますので、引き続きご愛顧のほどよろしくお願いいたします。

 

さて、去年の1月号が長谷川等伯だったので、今年はライバルの狩野永徳(1543〜90、天文12年〜天正18年)。
桃山時代に活躍した永徳は、戦国大名たちの趣味に合った豪華絢爛な画風で一世を風靡した。

下の写真は、織田信長が上杉謙信に贈ったとされる「洛中洛外図屏風 上杉本」(狩野永徳筆 山形・米沢市上杉博物館所蔵)。
 

この絵はがきは、5年前にサントリー美術館で開催された「天地人−直江兼続とその時代」展で購入したもの。
その2年前に京都国立博物館で開催された「狩野永徳」展では人が多くてじっくり見ることができなかったが、
このときは夜に行ったこともあり人が少なかったので、屏風の前を行きつ戻りつ、
「手前は三十三間堂で左奥が清水の舞台だ」とか、
 

「これは祇園祭の山鉾巡行で、手前が船鉾だ」とか、



言いながらじっくりと眺めていたら、あっという間に1時間が過ぎてしまった。

しかし永徳は、時の権力者、織田信長、豊臣秀吉の寵愛を受け、狩野派一門をあげて安土城、大阪城、聚楽第などの障壁画に取り組んだばかりに、
権力者の没落とともにその絵の大半は城とともに灰燼に帰してしまった。
当時の記録によると、安土城内は金箔の障壁画で埋め尽くされていたという。
今となっては見ることができない安土城の障壁画に思いをはせ、安土城とともに記念撮影。

 

 安土城は、「天下の覇城」シリーズ。左がノーマルバージョンで、右が赤瓦バージョン。

永徳は、亡くなる一か月前、嫡男の光信、弟の宗秀を伴って、勧修寺晴豊を訪れ、「はせ川と申す者に内裏の対屋の襖絵を描かせることにしたのは、迷惑である」
と申し入れをして、当時、狩野派に対抗できるほどの実力をもっていた長谷川等伯の追い落としを図った。
等伯ファンの私としては、永徳も随分と性格が悪い、と思ったが、繊細な画風の光信はじめ、自分ほどの大きなスケールの絵を描くことができる弟子たちがいなかったことに
危機感を感じた一門の棟梁として、やむにやまれずとった行動だったのだろう。
おかげで光信や一門の弟子たちは、貴族からの注文に応え金箔をふんだんに使った下地の上に生き生きと源氏物語の一場面や四季の草花を描くことができたのだ。

昨年の10月に皇居の三の丸尚蔵館で展示されていた「源氏物語図屏風」「四季草花図屏風」(いずれも伝永徳だが、一門の作品との解説があった)を眺めていたら、「永徳の営業努力もむだではなかったのだな」といった思いが頭の中に浮かんできた。
(壁紙もきらきら輝く金箔をイメージしました)

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