4月一日一四○○、馬来部隊はビルマのメルギーを出撃、ベンガル湾北部に獲物を求めて通商破壊戦に向かった。
中央隊(指揮官 第一南遣艦隊司令長官 小沢治三郎中将)
重巡 鳥海、軽巡 由良
第四航空戦隊 空母 龍驤
第二十駆逐隊 駆逐艦 夕霧、朝霧
北方隊(指揮官 第七戦隊司令官 栗田健男少将)
第七戦隊 重巡 熊野、鈴谷
第二十駆逐隊 駆逐艦 白雲
南方隊(指揮官 三隈艦長 崎山釈夫大佐)
第七戦隊 重巡 三隈、最上
第二十駆逐隊 駆逐艦 天霧
南遣艦隊司令長官 小沢治三郎中将率いる馬来部隊は、開戦早々からマレー半島上陸作戦支援、マレー沖海戦、スマトラ島、ジャワ島攻略作戦支援、ビルマ攻略作戦支援と休む間もなく戦い続けてきた(下図参照)。
(南遣艦隊は、昭和17年1月3日に比島方面を担当する第三南遣艦隊が編成されたのに伴い、同日付で第一南遣艦隊と改称された。なお、蘭印方面を担当する第二南遣艦隊が編成されたのは同年3月10日。)
そして南方資源地帯の確保のメドが立ち、第一段作戦が終了するのを前に最後の花道として実行されたのが、インドのマドラス、カルカッタ方面の敵交通線を破壊し、敵艦艇を攻撃することを主な任務とした「ベンガル湾機動作戦」であった。
(馬来部隊の各隊はビルマのメルギー出港後、C点に向かい、C点からそれぞれ北、中央、南に分かれ獲物を求めた。)
「ベンガル湾機動作戦」は、南雲機動部隊の華々しい印度洋作戦の陰に隠れた地味な作戦であったが、三隊合計で商船や油槽船を21隻約13万7千トン撃沈、8隻約4万7千トン大破という大きな成果をあげ、ベンガル湾を制圧した。
わが方の損害は重巡 熊野の水偵2機が損傷しただけであった。
写真は中央隊精鋭の面々。(左から、由良、龍驤、鳥海、夕霧、朝霧)
馬来部隊は、地上部隊を除くと練習巡洋艦「香椎」、海防艦「占守」だけの南遣艦隊だけではとてもマレー作戦を遂行できなかったため、他の艦隊から戦力を一時的に借り受けて編成された部隊であった。
馬来部隊指揮官 小沢治三郎中将は開戦前に、この寄せ集め部隊で困難な作戦を指揮するには自分が先頭に立たなくてはならないと判断して、山本五十六聯合艦隊司令長官に旗艦用として大型巡洋艦の配属を直訴した。
その甲斐あって重巡「鳥海」の配属が認められた。
しかし、その「鳥海」も第一段作戦終了とともに召し上げられ、4月12日には第一南遣艦隊の旗艦は「香椎」に変更され、「鳥海」は翌13日に昭南港を出港し横須賀港に向かった。
「鳥海」はその後、同年7月14日に新設された第八艦隊の旗艦となり、8月9日の第一次ソロモン海戦では僚艦とともに連合軍の重巡4隻撃沈、重巡1隻大破、駆逐艦2隻中破という大戦果をあげている。
キットはアオシマ1/700「鳥海」クリア艦橋版(窓枠の部分が透明パーツです)。搭載機は九五式水偵(手前2機の複葉機)と零式水偵(奥)。
九五式水偵は好みで茶と緑の雲型迷彩塗装にした。
空母「龍驤」は、昭和17年5月3日に竣工した空母「隼鷹」とともにアリューシャン作戦に参加して、同年6月3日から5日にかけてダッチハーバーを空襲した。
その後、ソロモン方面に転じ、8月24日には第二次ソロモン海戦に参加したが、敵艦載機の攻撃を受けて撃沈されてしまった。
小さな体ではあったが、蘭印方面からインド洋、北方、さらには南東方面と、大海を縦横無尽に駆け巡った太平洋戦争初期の殊勲艦であった。
飛行甲板には九六式艦戦3機と九七式艦攻3機を配置した。
ベンガル湾機動作戦では、九七艦攻を再三にわたり偵察のために発艦させ、敵情の捕捉に大きく貢献している。
キットはフジミ1/700「龍驤(第二次改装後)」。
軽巡「由良」は第五潜水戦隊の旗艦であったが、この作戦には単独で参加した。
「由良」のキットは出ていないので、同じ長良型軽巡のタミヤ1/700「鬼怒」を使用した。
改造にあたっては、衣島尚一さんの「1/700洋上模型ハンドブック2002」がとても参考になった。
「由良」は昭和17年5月9日に第二艦隊第四水雷戦隊旗艦となり、ミッドウェー作戦参加後に南東方面に進出してガダルカナル島を巡る戦いに加わり、
同年10月25日にガ島東方で作戦中、米軍機の攻撃を受け沈没した。日本軽巡の戦没第一号であった。
本作戦に参加した駆逐艦はいずれも第三水雷戦隊第二十駆逐隊に所属し、中央隊には「夕霧」「朝霧」が配属された。
キットは同じ特型(「吹雪」型)U型のタミヤ1/700「綾波」をストレートで組み立てた。
両艦は昭和17年8月以降、南東方面に進出、「朝霧」は昭和17年8月28日、ガ島輸送作戦中に米軍機の攻撃を受け沈没、「夕霧」は昭和18年11月25日、ソロモン諸島ブカ島への輸送作戦中に米駆逐艦隊の攻撃に遭い、被弾して沈没した(セントジョージ岬沖海戦)。
北方隊と南方隊の最上型重巡を代表して南方隊「三隈」を製作した。
キットはタミヤ1/700「三隈」。
搭載機は敵輸送船発見に貢献した複葉の九五式水上偵察機(右)と零式三座水上偵察機(左)。
「三隈」はベンガル湾機動作戦終了後、原隊の第二艦隊に復帰し、同年6月のミッドウェー作戦に参加した。
同作戦では、南雲中将の空母機動部隊壊滅後、ミッドウェー島砲撃を命じられたが、作戦中止により反転する際、僚艦「最上」と衝突し、その後、
米空母エンタープライズ艦載機の攻撃により、6月7日沈没したので、ベンガル湾機動作戦は本当に最後の花道であった。