南方攻略作戦(駆逐艦「神風」型の戦い)

はじめに

 真珠湾攻撃で始まった日米開戦の直接の目的は、油田地帯・蘭印(現在のインドネシア)をはじめとした南方の資源地帯を制圧することだった。
 そのため、日本軍は開戦劈頭、東南アジアのほぼ全域と中部太平洋に約21万人の将兵を送り、フィリピンや中部太平洋の島々のアメリカ軍、香港、マレー半島、シンガポール、ビルマのイギリス軍、蘭印に駐留するオランダ軍他の連合国軍を、約5か月という短期間で一気に撃破するという壮大な渡洋作戦を実行することとなった。

 (「神風」型関連地図)

 しかし、日本海軍にはそれだけ多くの将兵を運ぶ輸送船を護衛する艦船の数が足りなかった。そこで、開戦時にはすでに旧式化していた「神風」型までもが最前線に駆り出された。
 その後も「神風」型駆逐艦は、船団護衛などの任務に従事するうちに、一隻また一隻と失われ、終戦まで無傷で生き残ったネームシップ「神風」は、帝国海軍最後の水上艦同士の戦闘といわれる「ペナン沖海戦」で敵艦と相まみえることとなった。
 そこでこのコーナーでは、旧式駆逐艦ながら大日本帝国の命運を賭けて、緒戦から戦争末期まで縦横無尽に奮闘した駆逐艦「神風」型の戦いを振り返ってみることとしたい。

1 開戦時の「神風」型の配属部隊

 「神風」型は大正11年から14年にかけて9隻が建造され、そのうち8隻は第一線の水雷戦隊に配置され南方攻略作戦に参加し、「神風」だけは北方にあり、千島、アリューシャン方面の哨戒、船団護衛に従事していた。

  第三艦隊
   第五水雷戦隊  旗艦 軽巡「名取」
    第五駆逐隊    「朝風」「春風」「松風」「旗風」(以上、「神風」型 この4隻は艦尾に掃海具をつけた前期型)
    第二十二駆逐隊 「皐月」「水無月」「文月」「長月」(以上、「睦月」型)

  第四艦隊
   第六水雷戦隊  旗艦「夕張」
    第二十九駆逐隊 「追風」「疾風」「朝凪」「夕凪」(以上、「神風」型 この4隻は右舷にも予備魚雷格納筐が装備されている後期型)
    第三十駆逐隊   「睦月」「如月」「彌生」「望月」(以上、「睦月」型)
 
 大湊要港部
   第一駆逐隊  「神風」「野風」「沼風」「波風」(「神風」以外は改「峰風」型)

今回製作したのは、「神風」型9隻のうち5隻。
 一番右上から、バタビア沖海戦で煙幕を張って輸送船団を守った「春風」、同じくバタビア沖海戦で敵艦隊に魚雷を打ち込む「朝風」、戦争末期に対空兵装を強化した「神風」、ウェーキ島攻略作戦に参加した「追風」「疾風」。
 キットはいずれもピットロード1/700。

 「春風」「朝風」が対空兵装強化前をキット化した「神風」、「神風」は対空兵装強化後をキット化した「夕凪」、「追風」「疾風」は、後期型の「疾風」のキットを使用した。
 ただし、「疾風」のキットは右舷に予備魚雷の運搬軌条がついていないため、、「追風」と「疾風」は延ばしランナーで再現した。下の写真は「疾風」。
 
 

海面ベースは、F-toysの「1/2000 艦船キットコレクション」の波模様をダウンロードして、インジェクションプリンタ用紙ラベル(ノーカットタイプ)に印刷して、1o厚のスチレンボードに貼り付けたもの。
 1/2000とはいっても、海面ならスケールの違いは気にならない。

2 ウェーク島攻略作戦(昭和16年12月8日〜12月23日)

 緒戦は連戦連勝の日本軍であったが、米本土−ハワイ−フィリピンを結ぶ中継地点として戦略上重要な拠点であったウェーク島の攻略は難航した。
 作戦は、第六水雷戦隊を基幹としたウェーク島攻略部隊が担当した(第二十九駆逐隊第二小隊の「朝凪」「夕凪」はマキン島攻略作戦参加のため欠)。
 12月8日から10日にかけて行われたルオット基地の千歳空・陸攻隊による爆撃のあと、10日夜半に攻略部隊は上陸を開始したが、その夜は波浪が高く、大発の降ろし方作業に失敗し、上陸は翌朝に延期になった。
 翌11日、空が明るくなるのを待ち、「夕張」と隷下の駆逐艦が艦砲射撃を開始したが、敵陸上砲台から猛烈な反撃を受けた。
 「疾風」は最も海岸に近づいていたため、砲火が集中した。敵弾の直撃を受けた「疾風」は黒煙に包まれ、黒煙がはれた時にはすでに艦影は海中に消えていた。轟沈であった。
 下の写真は、手前が「疾風」、後ろが「追風」。右の写真は「疾風」の艦橋付近のアップ。主砲を海岸の方向に向けてみた。
  

 その後も陸上砲台と、千歳空による空爆の被害を免れた4機のF4F戦闘機の反撃が続き、今度は駆逐艦「如月」が敵戦闘機の爆撃により爆沈させられてしまった。
 予想外の損害を受け、また、天候が回復しないことから、ウェーク島攻略部隊はいったんルオットに撤退し、再起を期すこととした。
 
 第二次攻略作戦は、真珠湾攻撃からの帰路にあった第二航空戦隊の航空母艦「飛龍」「蒼龍」の支援を得て12月21日に再開され、哨戒艇(兵員輸送用に改装された「樅」型駆逐艦)2隻を海岸に強行擱座させて陸戦隊を上陸させるなど、攻略部隊の決死の攻撃の末、23日にようやく占領することができた。なお、第二次攻略作戦には、「朝凪」「夕凪」も参加している。

3 バタビア沖海戦(昭和17年3月1日)

  深夜の揚陸作業を開始していた輸送船団の上空に突如照明弾がさく裂し、ジャワ島東方攻略部隊を乗せた56隻の輸送船が暗闇の中にくっきりと姿を現した。
 攻撃を仕掛けてきたのは、昨日までの度重なる海戦で傷つきながらもどうにか戦闘能力を保っていた連合軍艦隊の米重巡「ヒューストン」と豪軽巡「パース」であった。
 輸送船団めがけて突進する2隻の巡洋艦に対して、輸送船団にもっとも近い位置にいた「春風」は直ちに煙幕を展開して船団の姿を隠した。
 写真は、煙幕を出し、懸命に輸送船団を守った「春風」。

 「駆逐隊突撃セヨ」との命令により、「春風」は敵巡洋艦に砲撃を加えていた第五駆逐隊の僚艦「旗風」と合同、さらに「朝風」と合流し、雷撃態勢をとった。
 その後の状況を『戦史叢書 蘭印・ベンガル湾方面海軍進攻作戦』はこのように伝えている。
 「第五駆逐隊も集結後、直ちに突撃に転じて0110ごろ右舷同航で射点に達したが、敵の猛烈な砲撃により「春風」は被弾、舵故障のため左に回答して発射時機を失し、「旗風」もまた至近弾の水柱のため発射できず、わずかに三番艦「朝風」だけが敵一番艦に対し3,700米から右舷同航発射(6本)を行っただけで、北方に避退するのやむなきに至った。」
「(「春風」は)0126敵一番艦に対して魚雷6本を発射、右に反転北方に避退し二分後に魚雷命中と思われる大水柱を認めた。「旗風」は0128、距離3,800米から魚雷6本を発射、「春風」と分離して西方に避退した」
 しかし、当時の「春風」艦長 古要桂次中佐の証言によると様子は違っていたようである(『艦長たちの太平洋戦争』光人社NF文庫 1993年)。
 古要艦長は、最初の突入のときには水雷長がミスして魚雷を打ち損ね、その後、魚雷を発射したが当たった形跡はなかった、と証言している。
 やはり当時その場にいた艦長の証言の方が正しいのだろう。
 それでも上陸部隊の第16軍司令官 今村均中将の乗船「佐倉丸」が味方の魚雷により撃沈され、今村中将が海に放り出されるというアクシデントはあったが、第五駆逐隊はじめ、第七戦隊第二小隊の重巡「三隈」「最上」および駆逐艦「敷波」、第五水雷戦隊の旗艦 軽巡「名取」と第十一駆逐隊「初雪」「白雪」「吹雪」の猛烈な砲雷撃により、果敢な攻撃をしかけてきた「ヒューストン」と「パース」を撃沈し、輸送船団を守ることができた。
 写真は雷撃体制に入る「朝風」。
 

 攻略部隊の上陸後、ジャワ島の攻略は順調に進んだ。3月8日には連合軍の各国軍が次々降伏し、3月10日には第16軍が連合軍司令部のあるバンドンに入城して蘭印の制圧は終わった。
 この成功の陰には、「春風」をはじめとした「神風」型駆逐艦のまさに体を張った奮闘があった。

4 その後の「神風」型の戦い(ガダルカナル島を巡る戦い、船団護衛)

 蘭印作戦に続き、第五駆逐隊の各艦は3月18日にビルマ攻略作戦に参加した。
 その後、昭和17年4月10日、第二作戦段階に備えて行われた連合艦隊の再編により第五水雷戦隊は解隊され、第五駆逐隊は単独で南西方面艦隊に配属され、主に船団護衛の任務に従事した。
 昭和18年2月25日には第五駆逐隊も解隊され、「松風」「朝風」「春風」は本土と南方の資源地帯との間の船団を守る第一海上護衛隊付けになった。
 また、「旗風」は昭和19年12月20日に帝国海軍初のハンターキラーグループ(対潜掃討部隊)第三十一戦隊に編入された。
 このように、生命線といえた南方航路を守っていた各艦であったが、アメリカ軍の反抗が激しくなる中、「松風」と「朝風」は昭和19年6月6日、8月4日米潜水艦の雷撃により沈没し、「旗風」は昭和20年1月15日、高雄で敵機の攻撃を受け沈没した。
 
 一方、第二十九駆逐隊の各艦は、ウェーキ島攻略後、南東方面に進出し、昭和17年1月13日のラバウル攻略作戦、3月5日のラエ・サラモア攻略作戦などに従事した。
 昭和17年7月14日、第六水雷戦隊は第二海上護衛隊に再編され、旗艦「夕張」はそのままで、駆逐隊は第二十九駆逐隊だけになり、「追風」「朝凪」「夕凪」に睦月型の「夕月」が加わった。
 その年の8月9日には「夕凪」が第1次ソロモン海戦に参加し、8月13日には「追風」がガダルカナル島を砲撃している。
 その後は船団護衛に従事していた各艦であったが、昭和19年に相次いで失われてしまった。
 「追風」は2月18日の米機動部隊によるトラック島空襲に巻き込まれ、「朝凪」、「夕凪」は5月22日、8月25日に米潜水艦の雷撃で沈没した。

5 「神風」型最後の戦い(ペナン沖海戦 昭和20年5月16日)

 「神風」型のネームシップ「神風」は、開戦以来アリューシャン列島や千島方面で船団護衛に従事していたが、昭和20年1月26日に門司を出港した「ヒ91船団」を護衛し、そのままシンガポールにたどり着き、さらに、インド洋まで進出して第二次世界大戦最後の水上艦どうしの戦闘である「ペナン沖海戦」に参加するという数奇な人生をたどっている (ヒ号船団のことは「海上護衛戦」の項であらためてふれます)。
シンガポールに来る途中、台湾海峡では、シンガポールから南方の物資を満載して本土に向かっていた完部隊(南方から航空揮発油やゴムなどの重要物資を本土に輸送する「北号作戦」に参加した航空戦艦「伊勢」「日向」、軽巡「大淀」、駆逐艦「朝霜」「初霜」「霞」)を護衛するというおまけつきであった。
 シンガポールで「神風」は兵員輸送などに従事していた。
 5月12日もインド洋のアンダマン諸島に取り残された陸軍部隊に物資を届けるため、重巡「羽黒」とともにシンガポールを出港したが、行く手に有力なイギリス艦隊がいるとの報に接したので、5月15日にアンダマン行きを断念し、ペナンに退避することにした。
 しかし、翌16日に「羽黒」隊は5隻のイギリス駆逐艦隊に捕捉され、 「羽黒」も応戦したが砲雷撃を受け沈没、「神風」も敵艦隊に突撃し砲撃を加えたが、物資を運ぶため魚雷発射管ははずしていたので、敵艦隊に決定的な打撃を与えることはできなかった。
 その後「神風」は「羽黒」の生存者を救出してシンガポールに引き返した。

 これは対空兵装を強化した「神風」最後の雄姿。
 4番砲と3番魚雷発射管を撤去して、艦橋前と4番砲跡に二十五ミリ連装機銃を二基づつ装備している。
 電探は装備していなかったとの資料もあるが、『駆逐艦「神風」電探戦記』(光人社NF文庫 2011年)を読んだので前部マストにラッパ型の二十二号電探を付けた。ただし、付け方は推定。
 また、ペナン沖海戦で取り外していた魚雷発射管は付けたままの状態にしている。

 

 「神風」の闘いは終戦間際まで続いた。
 6月には、8日にジャカルタ輸送、22日に仏印方面輸送に従事し、ジャカルタ輸送の帰路には「足柄」が被雷沈没し、乗員の救助を行っている。
 また、7月17日には仏印向けの船団を護衛中、米潜水艦「ホークビル」との死闘を演じている。
 (両者の攻防や、戦後、「ホークビル」艦長から春日均「神風」艦長あてに送られた手紙の件も上記の『艦長たちの太平洋戦争』に詳しいので、興味のある方はご参照ください)

 

6 最後に

 「神風」型の闘いは終戦後も続いた。
 唯一、無傷で終戦を迎えた「神風」は、終戦後も特別輸送艦として復員輸送業務に従事した。
 しかし、昭和21年6月7日、静岡県御前崎で荒天のため座礁していた海防艦「国後」を救援中、「神風」も座礁してしまい大破、放棄された。

 もう一隻、傷つきながらも終戦まで生き残った「春風」は、昭和23年にはその船体が京都府竹野漁港の防波堤として用いられたが、その年の台風により大破してしまった。
 しかし、これが竹野漁港における防波堤の早期整備を進めるきっかけになっているので(京都府のホームページによる)、「春風」は決して無駄に使われたわけではなかった。

 「神風」が竣工した大正11年から「春風」が大破した昭和23年までの27年間、「神風」型の各駆逐艦は、太平洋戦争中だけでなく、戦後の復興にも奮闘した殊勲艦であると言っても過言ではない。

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