開戦劈頭のウェーキ島攻略でつまづいたが、昭和17年に入ると、1月にはラバウル、カビエン、3月にはニューギニア東部のラエ、サラモアと次々に攻略作戦を成功させていった南洋部隊(第四艦隊)の次の目標は、豪空軍基地のあるポートモレスビーであった。
このポートモレスビーを占領すれば、ラバウルへの直接攻撃を阻止することができ、また、豪州本土と米国の連絡路を遮断するため、ソロモン諸島からフィジー、サモアまでの広範囲にわたる攻略作戦を企図していた日本海軍にとっては、ポートモレスビーの攻略がその足掛かりとなる重要な作戦であった。
「MO作戦」と名付けられたこの作戦は、当初4月に実施する予定であったが、ラエ、サラモア占領直後に攻略部隊が米機動部隊の反撃を受け、輸送船3隻、特設砲艦1隻が沈没、護衛部隊の軽巡「夕張」、駆逐艦「朝凪」「夕凪」「追風」他が小・中破するという大きな損害を被ったため、作戦は5月に延期されることになった。
作戦の実施にあたり、南洋部隊は、米機動部隊に対抗するために空母部隊の派遣を強く要望し、それに応えるかたちで聯合艦隊は空母「翔鶴」「瑞鶴」を基幹とする機動部隊を投入した。
一方、暗号解読により日本海軍の進攻を察知していた米海軍も、MO作戦を阻止するため空母「レキシントン」「ヨークタウン」を基幹とする機動部隊を珊瑚海に送り込んだ。
こうして南太平洋の珊瑚礁の海を舞台として、海戦史上初となる空母機動部隊同士の戦闘がはじまった。
【参加した日米双方の主な艦艇】
日本海軍
南洋部隊(指揮官 第四艦隊司令長官 井上成美中将)
MO攻略部隊(指揮官 第六戦隊司令官 五藤存知少将)
MO主隊 第六戦隊 重巡「青葉」「加古」「古鷹」「衣笠」
空母「祥鳳」(九六艦戦4機、零戦8機、九七艦攻6機 計18機) 駆逐艦「漣」
ポートモレスビー攻略部隊
第六水雷戦隊 旗艦 軽巡「夕張」
第二十九駆逐隊 「追風」「朝凪」
第三十駆逐隊 「睦月」「望月」「弥生」
敷設艦「津軽」 第二十号掃海艇 輸送船12隻
MO機動部隊(指揮官 第五戦隊司令官 高木武雄少将)
主隊 第五戦隊 重巡「妙高」「羽黒」
第七駆逐隊 駆逐艦「潮」「曙」
航空部隊 第五航空戦隊 空母「翔鶴」「瑞鶴」(零戦37機、九九艦爆43機、九七艦攻37機 計117機)
第二十七駆逐隊 駆逐艦「有明」「白露」「夕暮」「時雨」
米海軍
第17任務部隊(指揮官 フランク・J・フレッチャー少将)
攻撃隊(第2群) 重巡 「ミネアポリス」「ニューオーリンズ」「アストリア」「チェスター」「ポートランド」
駆逐艦 「フェルプス」「デューイ」「ファラガット」「エールウィン」「モナガン」
支援隊(第3群) 豪重巡 「オーストラリア」 重巡「シカゴ」 豪軽巡「ホバート」
駆逐艦 「パーキンス」「ウォーク」
空母群(第5群) 空 母 「レキシントン」「ヨークタウン」(F4F艦戦42機、SBD艦爆78機、TBD艦攻25機 計145機)
駆逐艦 「モリス」「アンダーソン」「ハンマン」「ラッセル」
補給隊(第6群) 油槽船 「ネオショー」「ティッペカヌー」
駆逐艦 「シムス」「ワーデン」
戦闘初日は日米機動部隊とも相手の所在がつかめず、双方とも有効な攻撃を加えることができなかった。
南洋部隊では、〇五二二、MO機動部隊が飛ばした索敵機が南方に「敵航空部隊」の発見を報じたが、それは平板な船型の油槽船「ネオショー」を空母と誤認したもので、〇六○○から〇六一五にかけて「翔鶴」から零戦9機、艦爆19機、艦攻(雷装)13機、「瑞鶴」から零戦9機、艦爆17機、艦攻(雷装)11機、計78機の攻撃隊が目標地点に向かって飛び立ったが、そこには機動部隊の姿はなく、結局、「ネオショー」と護衛の駆逐艦「シムス」を攻撃して帰還。「シムス」は沈没し、「ネオショー」は大破漂流後、味方の駆逐艦によって処分された。
〇六二〇、MO機動部隊は「古鷹」機から敵機動部隊らしき艦影を認めたとの電報を受けた。それは「ネオショー」のはるか西方であり、これこそがMO機動部隊が求めていた米機動部隊であったが、攻撃隊は南方の敵を求めて発進した直後だったので、攻撃の機会を逸してしまった。
第六戦隊の重巡「古鷹」。キットはハセガワの1/700「古鷹」。
大正15年3月に竣工した最古参の重巡だが、南洋部隊の一員として緒戦で活躍した。珊瑚海海戦の3か月後の8月8日、第一次ソロモン海戦に参加し、僚艦と共同で敵重巡4隻を撃沈したが、10月11日のサヴォ島沖海戦で敵艦隊の攻撃を受け、翌日未明に沈没した。
敵機動部隊を発見した「古鷹」の九四式水偵。
〇七〇〇、MO機動部隊指揮官 高木少将は「南方の敵を撃破したのち西方の敵に向かう」と各部隊に通知したが、攻撃隊が航空母艦に戻ってきたときには強風が吹いていため飛行機の収容に手間取り、一三一五になってようやく完了した。
彼我の距離を考えると、これから攻撃の準備を整え攻撃隊を発艦させても日没までに攻撃する見込みはなくなってしまったので、MO機動部隊は攻撃を一度は諦めた。
MO攻略部隊は、MO機動部隊が敵機動部隊をたたいてくれると思っていたのだが。
一方、フレッチャー少将率いる米第17機動部隊は、〇六一五、索敵機がMO攻略部隊を発見したが、フレッチャー少将はこれを日本軍機動部隊とみなし、空母「レキシントン」から急降下爆撃機28機、雷撃機12機、戦闘機10機、空母「ヨークタウン」から急降下爆撃機25機、雷撃機10機、戦闘機8機、計93機の攻撃隊を発進させた。
敵攻撃隊発艦の報を受け、空母「祥鳳」は全飛行機の発進に努めたが、攻撃隊到着前の〇八三〇ころ、ようやく艦戦3機を発進させたに過ぎず、第一波の攻撃を回避したあと艦戦3機を発進させたが、その直後の攻撃で被弾し、飛行甲板が大破して後部昇降機に火災が発生した。
その後も敵攻撃隊の攻撃は「祥鳳」に集中した。
潜水母艦から改装された基準排水量わずか11,200トンの軽空母1隻に93機が襲いかかったのだからだからひとたまりもなかった。
爆弾13発、魚雷7発が命中し、乗組員たちの必死の防火防水防空の努力にもかかわらず、〇九三一、総員退去が下命され、〇九三五、沈没した。
しかし、「祥鳳」は敵の攻撃を受けているだけでなく、沈没の直前まで抵抗を試みた。
かろうじて発艦できた戦闘機6機は上空で多数の敵機と交戦し、5機の撃墜を報じている。
また、高角砲要員は総員退去後もその持ち場に残り、砲が水没するまで対空射撃を続け、戦闘開始から数えて4機の撃墜を確認している。
敵の攻撃を一身に受け、輸送船団を守った空母「祥鳳」。キットはハセガワ1/700「祥鳳」。
甲板上には敵攻撃隊が迫る中、必死の発艦作業を行っている場面を再現してみた。
幻の「祥鳳」雷撃隊。
敵機動部隊発見の報を受け、迎撃用の戦闘機を発艦させるとともに、敵機動部隊攻撃のため艦攻隊による雷撃の準備をしたが、発艦前に攻撃を受けたので、残念ながら一矢を報いることはできなかった。
発艦できた艦戦6機の機種は特定できないので、最初に発艦した3機を九六艦戦、第一波攻撃後に発艦した3機を零戦とし、4機目の零戦と後ろの九七艦攻は発艦前に攻撃を受けたという想定にした。
九六艦戦は、戦前の銀色のイメージが強いので、フィクションかもしれないがイメージの方を優先して、機体を銀色、尾翼を赤色に塗装してみた。
この日の午後は、双方とも敵情の探り合いが続き、敵機動部隊との距離が縮まったことを知ったMO機動部隊は薄暮攻撃をしかけたが成功せず、空母機動部隊どうしの激突は翌日に持ち越された。
この日は早朝から日米両軍とも積極的な索敵活動を行い、双方の攻撃隊が敵機動部隊に襲いかかった。
〇四一五、「翔鶴」「瑞鶴」から艦攻七機が索敵に飛び立ち、うち「翔鶴」機から〇六二二、「敵空母部隊見ユ」との第一電が発進された。
この電報を受け、〇七一〇、MO機動部隊から計69機の攻撃隊が発進した。
攻撃隊の編成は次のとおり。
「翔鶴」 零戦9機、艦爆19機、艦攻10機
「瑞鶴」 零戦9機、艦爆14機、艦攻8機
翔鶴の飛行甲板上に勢ぞろいした攻撃隊。前方から零戦、九九艦爆、九七艦攻の順に並んでいる。
一番機の零戦がまさに発艦するところ。キットはタミヤ1/700「翔鶴」。
飛行甲板後方には「翔鶴」独特の明細塗装を施した九七艦攻。
第五戦隊二番艦「羽黒」。
「羽黒」は妙高型重巡の最終艦として大正14年3月16日に起工され、昭和4年4月25日に竣工している。
開戦時はフィリピン攻略作戦に参加し、その後蘭印方面に進出し、スラバヤ沖海戦に参加するなど、緒戦の南方作戦で常に最前線で活動した。
米機動部隊からは〇七一五に合計82機の攻撃隊が発進した。
攻撃隊の編成は次のとおり。
「レキシントン」 爆撃機22機、雷撃機12機、戦闘機9機
「ヨークタウン」 爆撃機24機、雷撃機9機、戦闘機6機
攻撃隊発進準備中の「レキシントン」。
キットはフジミの1/700「レキシントン」。
今回掲載した作例の製作にあたって「艦船模型スペシャル12 珊瑚海海戦」を参考にした。
「レキシントン」は古いキットだけあって私にしてはかなり手を入れたほう。
甲板は2本の白線用のモールドを消すため(実際には3本なので)、甲板をやすりがけして木甲板モールドを彫りなおした。艦橋まわりや船体まわりのスポンソンを追加した(下の写真の白い部分)。
丸い機銃座はフジミの1/700「利根」旧版キットの機銃座で代用した(濃いグレーのもの)。
ここまで手を加えると愛着が湧いてきて、とても沈むシーンの再現はできなかった。
甲板最後尾には「デバステーター」雷撃機。
今までウォーターライン・シリーズの米海軍艦載機セットには入っていなかったが、最近発売されたタミヤの1/700「ヨークタウン」に四機入っていたので二機借用した。
残りの二機は次の「ミッドウェー」で作成する予定の「ヨークタウン」の飛行甲板に並べるためとっておく。
先に攻撃をしかけたのは米軍だった。
〇八五七、「ヨークタウン」攻撃隊がMO機動部隊を発見したとき、「瑞鶴」は部隊の前方にあったスコールに隠れたため、攻撃は後方の「翔鶴」に集中した。
日本軍は上空直衛機の奮闘と、水上艦艇の砲撃により攻撃をかわしたが、「翔鶴」は飛行甲板の前部左舷寄りと後部右舷寄り、右舷艦橋後部の機銃台付近に各一発、計三発の爆弾が命中し、着艦不能となった。
約40分後、「レキシントン」攻撃隊が現場に到着し攻撃を開始したが、日本側に特に被害はなかった。
その後、「翔鶴」は護衛の駆逐艦とともに戦線から離脱した。
一方の日本軍攻撃隊は、〇九一〇、攻撃隊指揮官 高橋赫一少佐の「全軍突撃セヨ」の合図により、二隊に分かれ「レキシントン」と「ヨークタウン」に襲いかかった。
見事な雷爆協同攻撃により、「レキシントン」には魚雷二本が命中し、急降下爆撃により飛行甲板前部左舷と煙突に各一発、計二発の爆弾が命中した。
「ヨークタウン」は、魚雷攻撃は回避したものの、急降下爆撃による爆弾一発が飛行甲板に命中し、倉庫内で爆発した。
この攻撃により、「ヨークタウン」の被害は軽微であったが、「レキシントン」は攻撃を受けたあと二回大爆発が起こり、一五〇七、総員退去が下令され、その後味方駆逐艦の魚雷により処分された。
「レキシントン」の救助にあたる「ハンマン」。
「ハンマン」は、1939年から40年にかけて建造されたシムス級駆逐艦。
キットはピットロード1/700「リヴァモア」。
「リヴァモア」級の煙突は2本だが、シムス級の煙突は太いものが1本なので、アオシマ1/700「子の日」旧版の煙突2つをつなげ、隙間はパテで埋めてでっち上げた。
迷彩塗装の曲線の表現が思いのほかイメージどおりにいったので、結構気に入っている。
(ちなみに最近の作品はすべて筆塗りなので、塗装のよしあしは筆のすべり具合に左右されます)
「レキシントン」を失った米機動部隊は、太平洋方面部隊指揮官の命令により、「レキシントン」の生存者を救助後、その日の夜には珊瑚海から退避した。
一方の日本機動部隊も「翔鶴」が被害を受け、攻撃隊の損害も大きく(9日の使用可能機は、零戦24機、艦爆13機、艦攻8機 計45機に減っていた)、
駆逐艦の燃料不足も懸念されたので、南洋部隊指揮官は機動部隊に北上を下命し、聯合艦隊に対してポートモレスビー攻略作戦の延期について了承を求めた。
しかし、一時北上し、態勢を立て直して作戦を続行するものと思っていた聯合艦隊司令部は南洋部隊の消極的な姿勢に不満で、攻撃の続行を命令した。
そこで、翌9日に補給を終えた機動部隊は10日に索敵を行ったが、敵を見ることはできず、聯合艦隊司令長官はやむなく同日一三三○、作戦の延期を発令した。
かくして海戦史上初めての空母対決は幕を閉じた。
ウェーキ島攻撃に続き、ポート・モレスビー攻略にも失敗した第四艦隊。
海軍部内では「マタモ負ケタカ四艦隊」とモノ笑いのネタにされた。
史上初の空母同士の対決ということで、日米双方とも手探りの状態であったという点は考慮されなくてはならず、海軍部内にも同情論はあった。
しかし、長大な距離を敵航空兵力の脅威にさらされながら船団輸送を行うため、攻略部隊と機動部隊との連携は不可欠であったにもかかわらず、作戦直前に編成された寄せ集め部隊の指揮を、南洋部隊指揮官 井上中将はなぜ現場の指揮官たちに任せたのかという疑問が残る。
MO機動部隊は空母が主力の部隊であるにもかかわらず第五戦隊司令官 高木少将が第五航空戦隊司令官 原忠一少将より先任であったため、部隊全体の指揮は高木少将、航空部隊の指揮は原少将という変則的な取り決めが当事者間で行われた。
さらに、MO攻略部隊指揮官 五藤少将とMO機動部隊との意思疎通も十分ではなく、各部隊はバラバラに行動していた。
そして、井上中将は戦場から離れたラバウルに進出していた第四艦隊旗艦 「鹿島」の艦上で戦況を見守っていた。
開戦直前の昭和16年10月18日、南遣艦隊司令長官に任命された小沢治三郎中将は、寄せ集め部隊で困難なマレー作戦を実行するには陣頭指揮を行うことが必要と判断し、山本五十六聯合艦隊司令長官に大型巡洋艦一隻を要求し、即座に重巡「鳥海」が配属された。
当時の南遣艦隊旗艦「香椎」は、練習巡洋艦として建造され、速力は20ノットと低く、攻撃力、防御力、通信力も十分でなかったため陣頭指揮をとる能力はもっていなかった。
そこで小沢中将は大型巡洋艦が必要と判断したのだ。
しかし、井上中将は、同じような状況の下、小沢中将のような判断はせずに、「香椎」と同じく練習巡洋艦として建造された「鹿島」に残った。
軍令部軍務局長時代、当時の米内光政海軍大臣、山本五十六海軍次官とともに日独伊三国同盟に反対した井上中将は気骨のある提督であった。
しかし、自分でも「いくさには弱かった」と認めているように、最前線の指揮官向きではなかったのだろう。
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